この掛け軸は聖徳太子が描かれています。意外な事に、手には大工道具のさしがね(曲尺)をお持ちです。
聖徳太子は大工道具を中国から入手し、宮大工の職人さん達に建築の基礎や測量技術などを指導されたようです。私は聖徳太子の時代に飛鳥にいて、測量時にお手伝いをさせていただいてました(指示通りに動いていただけですが)
勝手な私の思い込みです。奈良県樫原市藤原宮はかなり広大な都でした。橿原市/藤原京とは (city.kashihara.nara.jp)
大和三山といって、樫原市に位置する天香久山(あまのかぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)があります。私はこの三山は聖徳太子が人工で作った山だと思っています。
なぜなら大和三山の山頂同士を直線で結ぶと、畝傍山を頂点としてほぼほぼ完璧な二等辺三角形が出来上がるのです。
『藤原京の大きさを現在の地図で説明すると、北は近鉄橿原線新ノ口駅、南が近鉄橿原神宮前駅から100mほど南の地点、東は桜井市内、西は畝傍山の西側という範囲になります。大和三山がすっぽりと藤原京の中に入っていたわけです』
藤原京を護る為に大和三山があるのか、大和三山を護る為に藤原京があるのか。大和三山の中で、香久山だけは天が付きます。天香久山の麓には天孫降臨神話の天岩戸神社があります。師は私に「まちがいないわ、ここだ」と教えてくれました。
『伊予国風土記』から抜粋
『天山に関する伝承はつぎのとおりである。伊予郡の郡家の東北に天山がある、天山の名の由来は山が天より降った時、二つに分かれ、いっぽうは大和国の天の香具山となり、他は伊予国の天山となったことによる』
現代では古代の建物などは遺跡としてしか存在していないのです。でも同じ空間でも時を越えて存在していることもあるのです。