naranoasuka’s blog

総ての世界に通じる道理に関して追求するブログです

【三蔵法師と日本の不思議な縁】

 日本は古代より神の治める神国でした。それなのにどうして仏教を必要としたのでしょうか。その経過を調べてみたいと思います。

 

 日本でも人気の『西遊記』は、中国からインドへ苦難の旅の末仏教の経典を持ち帰った玄奘三蔵の旅を記したのを基に描かれています。私は実在する法師だとは知らなかったのです。ましてや日本でも有名な『般若心経』を伝えたのも三蔵法師だったとは。

 

 昭和17年の事です。日本軍の高森部隊は南京にお稲荷さんを祀ろうとしていました。その時に石棺があり、発見された石棺には玄奘三蔵の骨が収められていると書かれていた拓本があったそうです。1300年の時を越えて日中戦争のさ中蘇ったのでした。

 

 昭和19年玄奘鎮魂の塔が日本の協力で作られました。南京側より日本へ遺骨の一部が慈恩寺慈恩寺 玄奘塔 (ukima.info)へ奉納されています。

 

 

 玄奘はなぜ遥か遠いインドへ渡ろうとしたのでしょうか。玄奘はなぜ同じ仏教にもかかわらず教えが違うのか…仏の教えは一つではないのか…その疑問に答えれる者は誰一人いなかったのです。その答えを得るためインドへと渡ったのでした。

 

 玄奘がインドに到着した頃は、仏陀の入滅後1000年が過ぎ教義の解釈の違いからインドでは大乗仏教と部派仏教の2派に分かれて勢力を争っていたのです。ショックを受けて玄奘ブッダガヤで拝んでいました。導かれシーラバドラと出会います。

 シーラバドラは「夢に仏陀が出てきて3年後に仏法を救う男が東より現れる。仏陀が天竺へ導いてくれた」と。玄奘は12年かけて唯識阿頼耶識・すべてを生じる識を学びました。

 

 玄奘は仏像7体・教典657部をインドから持ち帰ったのです。仏教は遥かなる旅の果て日本に伝わってきていたのですね。聖徳太子は日本人の精神性を高めるために、仏教の本質である釈迦の教えを流布したかったのだと思います。聖徳太子は、玄奘が天竺から釈迦の教えを持ち帰り、サンスクリット語から中国語へと翻訳する事を。そして日本にそれが伝わり心の平安を得る事ができると預言していたのではないでしょうか。

 

 後の日本で道元親鸞法然もみな唯識を学んでいます。苦難の果てに玄奘が天竺へと渡り得た智慧が今の私達の生活にも生かされているのでしょう。